「今日」トップ 元治1年9月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

◆8/30へ  ◆9/4へ

元治1年9月1日(1968年10月1日)

【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、征長副将以下出陣の朝命につき、取り計らいは江戸に任せるよう陳情
【京】会津藩公用人手代木直右衛門、中川宮に対し、土佐藩に将軍上坂周旋要請を依頼
【京】因幡藩留守居役安達清風に、大目付永井尚志は、江戸の事情がよくわからない様子だと日記に記す。
【江】参勤交代・大名妻子の在府復旧の令

☆京都のお天気:天晴 (『嵯峨実愛日記』)

>第一次幕長戦へ
■将軍進発・総督問題
【京】元治1年9月1日、禁裏守衛総督一橋慶喜は、書を伝奏に呈し、前30日の副将以下の急速出兵の朝命に対し、以前、京都と江戸で諸藩に達した征長部署に齟齬があった件を引き合いに出し、江戸に伝達はするが、取り計らいは江戸に任せるよう陳情しました。

〇8月30日の朝命(こちら)
〇慶喜の上書の超てきとう要約。
・徳川慶勝が征長総督を未だ請けないので、副将以下早々進発するよう取計らえとの朝命の趣、恐縮である。
・早々(在京幕府首脳から)江戸に申達すべきだと思うが、先日、追討部署の達しが、京都と江戸で達したものと異り、諸藩の疑念を重ねた件がある。一応、江戸に申達した上で、江戸に取計いをお伺いになったほうがよい。徳川慶勝も総督辞退を申し出てきたので、今頃、江戸では、評議中だと思われるので、京都だけで取計らって、後で(食い違って)不都合になっても宜しくないと存じる。
・過日の朝命により将軍進発になっている可能性もあるので、急速進発の御趣意は、篤と承り、早々江戸に伝達する。
・追って、慶勝の(総督辞退の)書簡(※)を提出するので、二条関白等で一覧した後、返却してほしい。
(※)慶勝は 8月月28日付の総督辞退書を認めています(こちら)。それに先立ち、慶喜に征長総督の台命を辞退したことを知らせるとともに、朝廷への執成しを依頼していたので(こちら)、慶喜が京都に届いた辞退書を取り次いだと思われます。

〇慶喜の上書(句読点、()内は管理人)
防長総督尾張前大納言(=徳川慶勝)未た御請不申立祖処、右様延日に及に而は御不都合且混雑の義難計候に付、副将以下早々進発仕候様可取計旨御沙汰の趣、奉畏候。右は早々可申達奉存候得共、過日追討の口々の達方、関東異同に相成り、諸藩の疑惑も相重候儀御座候間、一応、関東申遣候上、彼方取計に為相伺候方可然愚慮仕候事に御座候。殊、尾張前大納言にも愈御免相願候旨申来候上は、今程於関東何とか評議も御座候半、当地切取計仕候後に御不都合相成候而も不宣奉存候。且、過日 御沙汰の旨も御座候得ば、大樹(=将軍)進発の運ひ合にも相成候はゝ、尚以而の義、都合も可有御座候間、急速進発可仕旨御趣意柄、得と奉畏、早々関東可申遣奉存候。
此段、宜敷御取繕、殿下(=二条関白)被仰上可被下候、此段御報迄早々申入候也。
                                 一橋中納言
飛鳥井中納言殿
野宮中納言殿
猶々、追て尾州よりの書翰入貴覧候、殿下江御差出被下各方御一覧後御返却可給候也。

<ヒロ>
慶喜、朝廷と在府幕府首脳との間で、公武一和のために、苦慮してますね。

ところで、上記陳情書では、これから朝命を江戸に伝達するような書き方ですが、守護職・所司代・老中は、前日中に、慶喜と相談の上、江戸老中に送り状を認めていました(上記の慶喜の意見が反映されています)。この書状は、9月3日に江戸城に届けられているので、使者は30日夜には出立していそうなものです。備前藩の9月1日付資料にも、慶喜が「副将之指揮を諸藩決而請間敷、又越前にも御請仕間敷」と進言し、昨夕(=30日)江戸にも申し送ったと記されています。一応、朝廷に具申してから江戸に送ったという体裁にしたっていうことですかね?(細かいことが気になる悪い癖)

ちなみに、上掲の備前藩の資料には「此上総督之儀、橋公へ可被仰付(か)御断も御申立難被成(か)と之事」とも記されています。会津藩等が推している慶喜征長総督案は、京都では、結構、公然としたものだったようです。

参考:「九條家国事文書」「備前池田家史料草案」『稿本』(綱要DB 9月1日条 100 、101、9月6日条 17)(2018/5/12)

■将軍上坂運動
【京】元治1年9月1日、会津藩公用人手代木直右衛門が中川宮を訪ね、土佐藩に将軍上坂を周旋させてほしいと内々に依頼ました。承知した中川宮は、早速土佐藩士乾市郎平を通して「兵衛」に伝えました。

<ヒロ>
将軍上坂は、かねてから中川宮が主張してきたことで、8月25日(?)に朝命が出ていました。会津藩は、既に将軍上洛を周旋する使者を二度送っており、前30日の征長副将以下出陣の朝命伝達の使者も送っています。どういうわけで、土佐藩を選んで周旋を依頼しようと思ったのか不明ですが、土佐藩に直接頼めるような間柄じゃなかったんでしょうか。(池田屋事件で元土佐藩士が殺されていたり、明保野亭で会津藩士が誤って土佐藩士を殺害してしまい、その後、会津藩士は自刃した事件があったり)。一方で、禁門の変後も中川宮との関係が保たれてることはよくわかりますが。

ちなみに、乾市郎平は、禁門の変前に、長州征討の勅命を早急に出すよう上書した土佐藩士です。

参考:『朝彦親王日記』i一p58(2018/5/12)

****
【京】元治1年9月1日、大目付永井尚志は、因幡藩京都留守居役安達清風に対し、江戸の様子が全くわからないと述べました。

この日、安達は、時事を相談するため、永井を訪ねました。そうしたところ、永井は、徳川慶勝が総督を辞退したことを伝えた上で、江戸から大目付・目付が来るはずなのに未だ到着しないため、一向に関東の様子がわからないようだったそうです。

参考:「鳥取藩安達清風日記(9月1日条)」『稿本』(綱要DB 8月28日条)(2018/5/12)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦(元治1)一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>幕威回復の動き
■参勤交代の復旧
【江】元治1年9月1日、幕府は参勤交代・大名妻子の在府の復旧を命じました。

参勤交代は、文久の幕政改革の一環で緩和され、そのときに大名妻子の家族の帰国も許されていました(こちら)。参勤交代・妻子の在府の復旧は、諸藩には非常に不評で、いろいろ理由を挙げて延期したので、幕府は、10月、譜代大名に妻子・家族の江戸呼び寄せを督促しました。しかし、二度にわたる征長出兵もあり、結局、実現しないままに終わります。

<ヒロ>
唐突な参勤交代復旧について、『徳川慶喜公伝』では「時勢に迂なる老中等は、征長の大詔渙発し、将軍進発の令を布きたるを以て、幕威復興の機会・諸大名制圧の時機到来せりと信じ」たからだとの見方を示しています。

でも、会津藩江戸家老が9月3日付の書簡で京都に知らせたところによると「御時節柄、諸人不驚者無之、追々聞繕候処、参政大小監察方も御承知無之方有之、又は当日に御諫争之方も有之候由。閣老方両三方之御談合にも可有之哉、当惑之事に御座候」だったそうで、幕府内でも動揺があったようです。

この当時の老中は、首座水野忠精(出羽藩主)・牧野忠恭(長岡藩主)・阿部正外(白河藩主。6/24-)・本庄宗秀(宮津藩主。8/18-)・諏訪忠誠(諏訪藩主。7/23-)ですが、勝海舟の日記(9月10日条)や一橋慶喜の後年の回想でやり玉にあげられているのが、諏訪忠誠です。また、本庄宗秀は、安政の大獄時代の寺社奉行だったため、朝廷からはいい印象がなく、所司代就任を松平容保に阻まれた人物です。アヤシイ・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』3p113-114、『続再夢紀事』三p292-293(2018/5/12)
関連:■テーマ別文久2「幕政改革問題」「開国開城」文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

その他の主な動き(綱要)
【天狗・諸生】水戸藩主徳川慶篤名代松平頼徳(宍戸藩主)、那珂湊及附近の要衝に兵を部署して、水戸藩執政市川三左衛門等の来襲に備える。
【長】長州藩主、恭順を諭す。

◆8/30へ  ◆9/4へ

「今日」トップ 元治1年9月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ